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ワンネスについて

先日の、自分にとっての矛盾・他者からみたときの矛盾の続きというわけではないけれど、
まだもやもやしていることがあるので、書くことで整理していきたいと思う。

それは、個人の意志の力と、自然のもつ力とのバランス、いや関わりについて。

私にとっては、東洋的な発想がなじむので、
八百万の神(そこらへんに落ちている石ころから、お天道様から、みーんな万物に神=宇宙の大いなる力は満ちている)という発想が好きだ。

そして同時に、マクロビオティックや、ベジタリアンの思想によくでてくる
you are what you eatという考え方もすごく実感としてわかる。

ジャンクなものや、不自然な物を食べたら、体調が悪くなったり、気持ちがざわざわしたり。
お肉大好きな人がたいてい攻撃的であるのは、食肉に加工されるときに、苦しみながら、大きな不安を抱えながら死んでいった、その想念が刻み込まれた肉やエキスを食べ、それに影響されるからだというのもよくわかる。

反面、お肉を食べているのにもかかわらず、穏やかな人もいる。
マクロビを厳格にやって育ったのに、心がいつも不安定で、不健康な人もいる。

この個人差は一体なんなんだろうか。

霊媒体質ではないけれど、まわりからの影響を受けやすい人、そうでない人がいる、
という形で結論をいってしまえばそれで終わりなんだろうか?

意志の力がまずは第一、というのはよくわかる。

食べ物からの影響だって、まずは本人の意志による選択により口に入り、それにより影響を受けたにしろ、結局それは本人のお望み通り=意志に基づいた結果だという言い方もできるかもしれない。

でも、意志さえあれば全てがうまくいく・・・それはどうなんだろうか。

ワンネスの発想から行けば、ジャンクなものを食べたり、不自然な化学物質を体に入れたり、そういうことをしても、意志をもって「私はこれらのものに影響を受けない」と決めさえすれば、それでOKというのは違う気がするのだ。

つまり、そういう不自然なものを無意識的であっても引き受けつつ、生きていくことには変わりはない。体に入ってきたこれらのものと自分は繋がっているのだから。

むしろ、そうやって、ほんとは存在しているのに、「意志」という名の自己暗示により、これらのものは存在しないように思い込むことが、体のどこかで癌をつくっていく過程に似ているのではないだろうかという思いだ。

そうか、書いているうちに気がついてきた。

ジャンクなものを食べたり、不自然な化学物質を体に入れる、と決めたその時点で、ほんとのほんとに、迷いはないのだろうか?という点で、意志の力が試されているのかもしれない。無意識のうちに、「いやだなぁ、体にいれたくないなぁ」とどこかで思っていたとしたら(それが顕在意識にあがっていなくても)結果、それらに影響されることになるのかもしれない。ここが難しいんですよね・・・・

意志。
普通、それは自分の顕在意識が決める内容のことだけを指す
と勘違いしがち。

でも。
アレルギーのような体の反応を含め、潜在意識の方が、顕在意識よりも、はるかに大きな大きな力を持っていて、普通それを簡単には操れないのだ。

そして、影響を受けてないつもりでも、潜在レベルでは必ず影響を受けている(その反応がでる時期がずれたり、あるいはわからないほど微細なレベルであらわれてる可能性あり)

そして、いくら意志の力があるとはいえ、宇宙の法則というか、自然の節理に反するような方向の意志を強くもったとしたら、その時は自然を押さえ込むかのように、思い通りになったとしても、あとで絶対違う形で歪みがでるのではないかと・・・。

だって、地球そのものがひとつの生命体だから。

なので、やっぱり私は、地球や宇宙の法則にさかわらない、菜食や、薬などの化学物質を使わないやり方を取るのがイチバン矛盾がないんじゃなかろうかと思うのだ。

というのが、今の時点での私の気づき。

あ、ではでは、先程の、お肉を食べたり不健康な生活をしていてもオーラがキラキラ輝いている人たちのことはどうなるのか?

これはまだ私にとって謎です。生まれ持っての人種がちがうのかもしれないとすら思う。生まれもった役割が違うのかもしれないし・・・
これについて何か実感としてわかったら、またいつか書こうと思います。

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コメント

この議題に正しい答えなんてないのかもしれませんが、「肉食でも穏やかに暮らせている」と言うの。。
もしかすると、少食がキーなのかも!と最近発見したんですが、どうでしょう??
わたしの夫の家族はみんなそんな感じです。
気持ちのアップダウンもあまりなさそうだし、とにかく穏やか、サザエさんちみたいな一家なんですよー。一応一人一人個性はあるんですが。
そして、家族みんなに共通するのがやはり少食。

わたしは良いものも悪いものもたくさん食べてしまう傾向が強いから、精神的な部分が弱いのかなぁって思ってます。


でも自分や身近な人が幸せなら、それでいいって思います。
(しっかし、この考えに行き着いたのも菜食メインな暮らしになったから、とも思う)
うちの父はほぼアル中のような状態だけど、ものすごい幸せそうで「余生」と言っていいくらいの年齢ですが、彼が幸せに自分のやりたいコトやってるからいいか、と思うし。

投稿: ポーリー | 2008年12月 3日 (水) 15時56分

ポーリーさんへ
なるほど!確かに少食はキーワードかもしれないです。
ああ、耳が痛い(^_^;
菜食とはいえ、けっこう食べるので私。。。

みんなそれぞれが、自分の気持ちに合った選択をして、行動する。
シンプルだけど、これができていたら幸せですよね^^
世間体とか、今の流行がどうだから、
とかで少しずつ行動がゆがめられていくと、
いつのまにか自分のしたいことから離れていく・・・それじゃ生まれてきたのにもったいないなと。

お父様、お酒がお好きなんですね~
一般常識から行けば止めたくなるところですが、
それで本人が幸せなら、そういう形もありなんだな、と私も思います^^

投稿: あわぽん | 2008年12月 3日 (水) 17時01分

まず菜食だから、肉食だから、、、、
明確な線引きは不可能かなあというのが私の考えです。

自分がナニを食べると心地よいか、
どうすごすと心地よいか、
誰とすごすと心地よいかどうか

私はそれで十分です。

よく菜食だと寛容かと問われますが、私はぜんぜん寛容ではないです。矮小な生き物で、いつももがいているのを感じます。

さて先日なんでもできる優秀な方に出会いました。
美しいし、賢いし、いわゆるグルメでなんでも頂く方ですから話題も豊富です。
いつも自分のことより人のために一生懸命な方で人望もあります。

ただそこで誰かが菜食だと言ったときに「まあ、どうして、かわいそうに、それは人生半分損してるわよ」という反応をなさるとき、その人の不全を感じるし、またその不全なところにほっとするのです。

私はかわいそうでも、損しているわけでもないんですけどね。その方はそういう見方しかできないのです。

またある方は、すごい努力家で完璧主義者です。

なんでもやって当たり前、できないことは努力して克服しようとなさいます。

絶対人に任せたりゆだねたりできない人いますよね。休めばいいのに薬をガシガシ飲んで仕事をして「休めないのよ!!」と怒鳴ったり。

もちろんそれだけがんばるから社会的にも認められているのかもしれませんが、そういうがんばりは果たしてどこまで続くのか疑問です。

そういう方は、私のようなちょっとトロイ人をみては「頑張りが足りない!!」と叱咤したくなるようで、、、笑
私はそういう方をみるにつけ、あぁそれだけ必死だし、がんばっているんだなあと思うのです。

人間もただの生き物。

お天道様次第です、、、、なあんてね☆

投稿: hearty | 2008年12月 8日 (月) 16時07分

heartyさんへ
そうそう、どんなタイプの人も、
愛すべき人たちなんですよね^^

ですが、私が私らしく生きていこうと思ったとき(これはみんなそれぞれ)、
その、私らしい状態とかけ離れた人たちと無防備に関わらず、ある程度線引きをしつつお互いが心地よく関われる方法で繋がっていきたいなと思います。

昔の私は、ちょっとでも合わないと思う人がいたら、がんがん関係を切ってましたが、結局あとから、新しい人間関係でも同じような壁にぶつかったので・・・最近はなるべくつなごうつなごうとしてます。

でも、ものすごくゆるい感じですけどね。

多様な世界が存在することはとても素敵。
そして、そんな世界が素敵だと思える余裕をもてる私でいたいなと思います。
年末慌ただしいのをいいわけに、どうもこれ実践が伴わない私なのでした。。。

投稿: あわぽん | 2008年12月 8日 (月) 16時37分

あわぽんさま
おっしゃることわかります。

私も自分とまったく相容れない人とつきあおうとしたときに、自分の無能さと変わらぬ相手に絶望して、関係そのものを切ってしまったこと何度もありました。

でも切ってしまうとき、自分の何かも切っていることに気づきました。

今は切れるとき=離れるとき
自然に切れていくと思うので、その流れに任せるようになりました。

前、他のところで書いたのですが「あなたからの贈り物はいりません。お気遣いなさらず」って言われたことがありました。
その方は贈り物はいらないと「贈り物だけ」を断ったのかもしれませんが、その方からも一切連絡がなく残念ながらそれっきりになりました。

その方にとってはそれが摂理で必然的なことだったのかもしれませんが、やはりさびしいものでしたね。

病気だってひとつの個性。癖だって個性。容姿のアンバランス加減も個性。
すべてが導かれて私を形成されていると思います。

だからあわぽんさんとの出会いも、私にとってかけがえなく意味のあるものだと信じてます。

投稿: hearty | 2008年12月 8日 (月) 21時08分

heartyさんへ
関係を切らずに繋いで繋いで暮らしていくことは、ときに煩雑で、うっとおしいと思うこともあるかもしれないですよね。

特に、多忙でいっぱいいっぱいになっている人や、お人好しで、NOと言えないタイプの人は・・・だから、そうやってゼロかイチ、関係を続けるor全く切ってしまうという不器用な方法でしかコミュニケーションが取れないのかもしれないです(っていうか昔の私がそれ)

あと、とても思うのが、何かがなくなるとスペースができるので、そこに新しい人や物との出会いがやってくるのは確か。
関係が切れてしまったときは確かに寂しいけれど、次の新しい窓が開くチャンスでもあるんですよね^^

年末、慌ただしい季節ですが、一日のうち少しの時間でも、ゆったりと、自分や大切な人のことを想う時間を持ちたいなと思います。

投稿: あわぽん | 2008年12月 9日 (火) 09時23分

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